二、青森の少女の命を想う
青森市の浪岡中学校2年の女子生徒(13)が今年の夏に自ら命を絶ちました。
その10日ほど前に撮影された写真が、たまたま写真コンクールに受賞されましたが、紆余曲折あり受賞が取り消されました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161018-18110127-webtoo-l02
【「死」は誰のものだろうか】
意味のない考えかも知れないけれど、昔からよく考えていたことだ。
「生(せい)」は誰のものか、についてはいくつかの解答があると思う。
それは自分のためであり、家族や愛する人のためであり、国家や上官のものであったりする。
彼女の死は、誰のものだろうか。
ご遺族のコメントを読む限り、彼女の死は「いじめ」が原因であることは間違いなさそうで、それだけではないのかも知れないが、ぼくにはそれをうかがい知ることは出来ない。
前提として、ぼくは何があっても自殺はしてはいけないと思っているし、叶うならば両親よりも先に死んではならないと思っている。
彼女がもし、いじめに絶えきれず命を絶ったのだとしたら、それは自分を死によって救おうとしたのかも知れない。そうだとしたら、死はまさに彼女のものだ。(繰り返すが、その結論はぼくは正しいとは思えないけれど)
今回の件でご家族はとても心を痛めたと思う。
一生、忘れないだろう。
生きた思い出も、死んでしまった思い出も、全部引き受けてこの先の人生を生きていかれると思う。
だとすると、死はご家族のものとも言える。
あまり健全な考えではないが、彼女を死に追いやった人物がいたのだとしたら、彼女の死は「呪い」となり、その人物につきまとう闇として存在するかも知れない。
その場合、死はその人物のものでもある。
彼女の写真はひろく日本に伝わり、多くの人の心をざわつかせたと思う。ぼくもその一人だ。
彼女の死は、ぼくのなかにも存在している。
生と死と、どちらの強さが強いかはぼくには分からない。
でも、どちらの力もとてもとても大きいものだ。
昔、人から聞いた言葉だけど、死は生者に対する「最後の贈り物」なのだそうだ。
その贈り物を、すぐに忘れてしまう人もいるだろう。
それもまたひとつの選択肢だ。
でも可能ならば、ぼくはその死が誰のものであれ、自分のなかに少しだけでもとどめておきたいと思うのだ。
何の役にたつとかではないかも知れないけれど。
目に見えない何かを、「つないで」いく感覚、というか。
ぼくたち人間は、人の死を、そうやって少しずつつないで生きていると思っている。
それが、豊かな心をもつ未来にほんの少しずつでもつながると信じているから。
どうか、彼女の死が、「未来」とつながるものであるよう、祈っている。
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